難攻不落。石田三成の水攻め - 忍城 @2018 夏

(Oshi Castle, Gyouta Saitama Pref)

作成中。なんとこのお城日記、5年も前のものとは(・・;



忍城にて。日本続100名城の関東制覇ももうすぐの写真日記。
Photographer M.L
Lens Cosina Nokton 58mm /f1.4G, Tamron 15-30mm/ f2.8

唐沢山城 / 彦根城
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アップするのが遅すぎる

ついこのあいだのような気もして、いろいろなことをまだ肌感覚で覚えているのに、もう5年も前になるこの忍城日記。


写真の横ピクセルを1200pxから1400pxにしたり試行錯誤していました。でも結局は横1200pxのほうがバランスよくてそっちが多いのだけど^^; ちなみにこのアクセサリーはアメリカのニコール・リッチーという女性の小さなブランドで、ハウス・オブ・ハーローというシリーズ。高いものではなくて日本でも割と簡単に買えます。パリス・ヒルトンさんのクラスメイトだったらしいです。


写真撮影をしてからアップするまで、たいていは1年くらいの寝かし期間をおくようになってしまいました。いろいろな理由があるんだけど、体調が悪化する前からもともと編集が遅いほうでした。この時はたぶん、パソコン、タブレット、スマホでそれなりに同じような見やすさ(=レスポンシブデザイン)にするのに初心者のあたしとしてはかなり苦戦して半年〜1年くらいかかってしまったのと、ちょうどその頃にメインのパソコンが壊れたのが原因でした。だいぶ時間が経過してしまったけど、この頃からゴープロでの撮影もやりはじめていたので、データが見つかったらアップします^^v ゴープロといえば3〜5くらいまでの発展は強力なブレ補正やハイパーラプスで面白くてかなり売れていたらしいけども、7〜10(最新は11?)あたりで停滞し、あたしもゴープロ8を最後としていまだにそれ使ってます。適当に扱っても壊れにくいということもあり、あとはバランスの問題かな〜。





忍城


忍城といえば石田三成さん。石田三成さんといえば忍城と佐和山城というくらいに有名なこのお城。水攻めを失敗した三成さんは、秀吉さんに若干の白い目で見られるもとりあえず「まあ、精進せい」みたいな居心地の悪い話があったとかなかったとか。もう完結してるけどもコミック「へうげもの」の三成さんが好きです。




この日の空はなんだかすごい存在感だったのを覚えています。雲って意外と表情が豊かなんですよね〜




忍城の中にある太鼓楼。時計台のようなイメージです。


こういう感じの色合いが好き。コシナのノクトン58mm/f1.8さん。コシナはニコンZ用レンズなどのミラーレスレンズでも以前のような雰囲気を維持したままで、大好きなレンズメーカーさん。




この iPhone は見た感じ 6S かな〜。今は SE2 という安いのを使っています。実はスマホって嫌いなんですよね・・・・。この頃はミニ動画をユーチューブとかに載せ始めた頃でもあって、スマホで撮った動画を手に持っている変なデバイス(ギンバルというジャイロ・ブレ補正デバイスのイメージ)と合わせてそこそこ楽しく遊んでいました。




関東の100名城に続いて、続100名城も残りわずかとなっていたこの頃。関東には栃木の唐沢山城など近いようで遠いお城が結構ある。





石田三成さんについて思うこと@雑談

この忍城日記、5年も前ということもあるので、どうせなら写真と関係のない話でもしてみます。石田三成さんというと、関ヶ原での敗戦以降、敗者としてのイメージが色濃いように思います。それは事実だけど、あたしはそんな彼が好きです。敗者にも命をかけて生きてきた歴史があって、何かしらの意味があったとわたしは信じています。



最近では海外のユーチューブチャンネルなどでさえも考察しているように、西軍と東軍の合戦となった関ヶ原は、はじまる前から西軍の負けはほぼ決まっていました。一説には真田幸村が家康本陣まで接近して、 もう少しで家康を討てたという話もあるけれど、それが事実だとしても最終的に西軍は負けていたと思う。 西軍は、小規模の城主にすぎない三成さん西軍総指揮のようにならざるをえなかったのだけど、この段階でねじれがひどすぎる。 名義上の西軍総大将であった毛利輝元も家康を嫌っていたとはいえ、同じ豊臣の5大老だったしなぁ。 四国の長曽我部さんは東軍に味方しようとしていたところで足止めくらって、流れで西軍になってしまったけども関ヶ原当日は動かなかったという話は事実っぽいし。 さらに小早川秀秋なんかも秀吉の身内でしかも豊臣家の5大老なのに家康と裏取引をしていた可能性が高すぎる。西軍の勢力を簡単にまとめると、

総大将 毛利輝元 = ほぼ動かず
小早川秀秋 = ほぼ動かず
長曽我部 = 毛利と小早川に邪魔されて動けなかった
島津 = 薩摩鹿児島なので中央から遠すぎる。西軍にいる理由もあまりないし、東軍ともほとんど関係ない。

という、主力と思われる大名や勢力がほぼほぼやる気がないという印象をあたしは受けます。三成さんというのは誤解を招きやすい性格であったとも思うし、どこか後世の大久保利通さんを思い出してしまう。 明治政府が当時から隠語で「毛利幕府」と呼ばれていたらしいのは、西軍好きとしてはちょっと嬉しいかも。

忍城を訪れた際の写真はもうちょっといくつかはあったはずなのですが、見つからないんですよね〜(ーー; どこにいっちゃったのかな〜





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